音楽な人・小川真一さん 1/4

更新日:2021年2月19日

まちに関わる○○な人に豊橋まちなか会議事務局がインタビューして○○を深堀する「となりの“まちびと”たち」をお届けいたします。
今回は音楽な人ということで、水上ビルでレコード店「ラビットフット・レコード」を経営されていた音楽評論家の小川真一さんです。FMヤシの実の「ラビットアワー」(毎週木曜18時~)で共演している竹内竹蔵さんと一緒にお話ししてくださりました!(取材日 2020.11.16)

No.2 音楽評論家 小川真一さん
音楽評論家。ミュージック・マガジン誌、レコード・コレクターズ誌、ギター・マガジン誌、ロック画報などに寄稿。共著に『日本のフォーク完全読本』(シンコーミュージック・エンタテイメント)『ジェネレーションF 熱狂の70年代×フォーク』(桜桃書房)ほか多数。最新刊は「フォークソングが教えてくれた」(マイナビ新書刊)。1979年から豊橋にてレコード店「ラビットフット・レコード」を経営(2003年閉店)
  • 第1回 ラビットフットレコードとグロッタ
  • 第2回 あの頃と今
  • 第3回 豊橋にいるワケ (順次掲載いたします)
  • 第4回 かっこいいの定義 (順次掲載いたします)

第1回 ラビットフットレコードとグロッタ

事務局K このインタビューは、豊橋のまちなかで活躍されている方を取材し、その会話のキャッチボールを通じてその人を深彫りして紹介しつつ、豊橋まちなか会議の活動をひろげる事を目的に行っている企画です。僕らの会話をできるだけそのまま残し、気楽に読んでいただければというコンセプトです。
さっそくですが小川さんの生い立ちやルーツをお聞きしてもよいですか?

小川さん 1950年代生まれです。これは50年生まれではなく、あくまでも「50年代」生まれですからお間違えなく(笑)。現在の職業は音楽評論家です。音楽評論家というのはライセンスも国家試験もいらないので、誰でもなれます。言ったもの勝ちですから。

竹内さん …ちゃんと著作があるじゃないですか(笑)。

小川さん そうか(笑)。最新刊として、マイナビ新書から「フォークソングが教えてくれた」を出版しました。ラビットフット・レコードは1979年に始めました。80年説もあるのですけど、いろいろ調べたら79年じゃないかと…。

竹内さん …自分のお店じゃないですか(笑)

小川さん あんがいと覚えてないものだよ(笑)。なぜ始めたかというと、豊橋に欲しいレコードを売っている店がなかったからです。特に輸入盤は名古屋へ行ってもなかなか手に入らなかった。聴けない音楽を聴きたかった。そういう自分が欲しているレコード・ショップは、きっと他にも求めている人がいるだろうな、という発想から店を始めました。

当初のお店の雰囲気ですが、レコード屋ってずっと立って探しますよね。ならば休憩のできる椅子があってもいいんじゃないかってことで、店内に休める長椅子を置きました。それからコーヒーが飲めるといいなと思い、コーヒーのサービスもしました。

事務局K お店においてあるレコードのジャンルはどのようなものですか?

小川さん クラシック以外はほぼありました。クラシックもあったんですけど、言えるほど量はなかったです。最初は、現在の「スモモバル」が入っている場所で開業し、それから、手狭になったので向かいの水上ビルに移りました。

事務局K 名前の由来はなんだったのですか?

小川さん ラビットフットというと、兎の足を連想するかもしれませんが、きちんとした由来があるんですよ。1900年代の初頭から30年代くらいまでアメリカ南部を回っていた一座があって、その一座の名前がラビットフット・ミンストレルズ。万能の塗り薬などを売るために、人集めでショーを見せるので、メディシン・ショーともいうのですが、いわばアメリカ版がまの油売り。そのうちにショーが話題となって、演奏がメインになっていく。これがアメリカの黒人の音楽の発展の起爆剤になっていったのです。その由緒のあるラビットフット・ミンストレルズから名前を借りました。

竹内さん 兎の足(ラビットフット)ってお守りにするじゃないですか。あれかな?と思っていました。

事務局O ロゴもそれをモチーフに…

小川さん そうです、本家のラビットフット・ミンストレルズのマークからとりました。だから、分かっている人は「あぁ、これなんですね」と言ってくださいます。
それと、ラビットフット・レコードによく来ていた人も知らないかと思うのですけど、当時はレコードの通信販売が凄く売れたんですよ。

竹内さん へー

小川さん 知らないでしょ? 通販で店を支えていたんですよ。通信販売といっても普通のレコードが売れるわけじゃない。廃盤になった貴重なレコードや、アメリカ国内でもあまり手に入らないインディペンデント(自主制作)の盤とかがよく売れました。
当時はまだネット・オークションがない時代なので、海外の個人のディーラーからリストを取り寄せて買っていました。ネットがないので、連絡はすべてエアメール(国際郵便)を使って。送ってもらうのも航空便だと高くつくので船便を使ったり、ずいぶんと悠長な時代だったと思います(笑)。

事務局O 小川さんはジャズ喫茶「グロッタ」でバイトしていたと聞きましたが。

小川さん 「グロッタ」というのは、ラビットフット・レコードのあった場所の通路挟んだ隣にあるジャズ喫茶店のことなのですが、この店は1969年に開店して、それから1年弱くらいかな、アルバイトをしていました。
「グロッタ」はいわゆるジャズ喫茶で、このジャズ喫茶というのは1966-7年からはじまって1970年代の半ば位までは文化として成立していました。なぜジャズ喫茶が必要だったかというと、家庭ではジャズが聞けなかったからです。まず、ジャズのレコード盤が中々手に入らない。レコードを持っていたとしても、大きい音でかけられない、オーディオ装置が高価でいい音で聴くことが出来ないといった事情がありました。

豊橋の喫茶店の文化を考えるうえで「グロッタ」の存在は大きかったと思います。当時の「グロッタ」の様子を思い出すと、外から店の中が一切見えない。ドアをあけるとまずカーテンがあり、中入ると真っ暗です。そして声が聞こえないくらいの大きな音でジャズがかかっていてお喋りは禁止。当時のジャズ喫茶は、お喋りが禁止だったんですよ。

竹内さん お喋り禁止時代は行ったことないかもしれないです。

事務局K 「禁止時代は」ってことは、時代と共にスタイルも変わっていったんでしょうか?

竹内さん 後年は、ちゃんと窓から店内が見えましたし(笑)

事務局K 音量も下がったのですか?

小川さん はい、10分の1くらいに(笑)。当時の「グロッタ」には、酔いどれ詩人や貧乏な画家や得体の知れない文化人や、指名手配の人まで(笑)、色々な人がお客さんとして来ていました。その繋がりもあって、ラビットフット・レコードにもさまざまな人が来ました。自主映画を撮っている人や大学で音楽サークルやっている人、演劇やってる人が来たり、その彼らがポスターやチラシ置いてくれたりして色々な交流が生まれていきました。
そういったこともあり、ラビットフット・レコードは、交流の拠点、文化のハブになっていたと思います。

(第1回 ラビットフットレコードとグロッタ 終了)

右から竹内竹蔵さん、小川真一さん、事務局K (撮影者:事務局O)

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